セピック便り、今回はEast Sepikから、久し振りの投稿です。まずは協力隊の良心、トシちゃんからです。関連リンク
そしてブタさんはいなくなった
任期も残すところ数ヶ月となり、いままでの自分の活動を振り返ることが多い今日この頃です。
やはり楽しい事は色々ありましたが、悲しい事(親しい友達の子供の死亡など)や怖かった事(道路掘削工事中に第2次世界大戦時の不発弾を発見など)は今後も私の記憶から消えることはないでしょう。
楽しかった事の中で、最近この話を現地の人達にすると非常に受けが良かった体験をお話しします。
道路工事でウエワク市から140km離れた村にいたとき、私はPNG政府のSUZUKI 120ccのオートバイを運転して現場まで通っていました。(※宿泊していたのは現場近くの村)いつものようにオートバイで走っていますと、突然、横から黒い石のかたまりのようなものが飛び出し、オートバイのエンジンガードの部分にぶちあたりました。私はそのまま転倒しましたが、幸い手と足に少しの擦り傷がある程度で、別に問題はありませんでした。そして私は何があったかと思い振り返って見ますと、なんと豚さんが倒れているではありませんか。私はこの辺の村は豚さんが非常に貴重である事を知っていたので、嫌な予感がしました。嫌な予感というのは当たるもので、回りから村人がいっぱい現れ、そして口々に賠償金を払えと言っています。たしかに、私が豚さんにぶち当たったのなら悪いという気がおこりますが、事実は豚さんが私のバイクにぶち当たったのです。しかし事実を知らないこの豚さんの飼い主は私に賠償金をと必要以上に要求してきます。しかし、ここで幸運なことに目撃者が現れました。この人は事実を説明し私が悪くないとかばってくれました。このように一人でも同情する人が現れますと、連鎖反応でいままで私に文句を言っていた人間が逆に、豚さんの飼い主に対して賠償金を払えと要求しています。そしていつの間にかこの豚さんが賠償金のかわりだという事になりはじめますと、この豚さんの飼い主一家を除いて総ての人々が、私を応援しはじめました。
But、ここでなんと、いままで死んでいたと思っていた豚さんが生き返って、慌ててブッシュのなかに逃げていきました。すると今まで渋い顔をしていたこの豚さんの飼い主の顔がパッと明るくなり、私に話しかけてきます。その内容は今度この豚さんを発見すれば必ず私にくれるというのです。この話で、他の村人も納得してその場は別れました。
そして、その後、私は何度もこの現場の前を通って、豚さんがいると、この豚さんがあの時の豚さんだろうと言いますが、飼い主は笑って、ちがう、別の豚さんだと言ってきます。
こうして、現在も私は豚さんをいただいていません。(この飼い主は一匹しか豚さんをもっていなかったのになあ~。)
Paradise NOV. 1988より転載。
米国関連会社における家畜への不適切な取り扱いに関する調査結果並びに再発防止策について
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「食」のエッセイ “文化”を食べる人々|第19章 豚のこと